創業以来の長い歴史の中で、ZEISSは財団企業として社会との関わりを果たしてきました。光学を通じた公衆衛生や公共の福祉・利益への貢献など、多様な社会課題への取り組みや歴史を勤続40年以上のベテラン社員 田中 亨さんに語っていただきます。
創業から177年。現在のZEISSに至るまでの歴史をお聞かせください。
はじまりは1846年(弘化3年)、ドイツ東部にあるイエナ大学の近くで、創始者であるカール・ツァイス(1816-1888年 以下:ツァイス)が光学機械製造所として事業を開始。
30年後の1876年、ツァイスはイエナ大学の物理学者のエルンスト・アッベ(1840-1905年 以下:アッべ)を、ZEISSの共同経営者として迎え入れ、顕微鏡の基礎理論づくりを依頼しました。1888年にツァイスが亡くなると、アッベはZEISSが彼の死後も持続的に事業を発展できるよう、1889年(明治22年)にカールツァイス財団を設立しました。
イエナ・ガラスの生みの親であるオットー・ショットも、ZEISSの財団化に協力し、1919年にはショット・ゲノッセン社もカールツァイス財団の傘下に。
創業から財団設立まで、ZEISSは顕微鏡の製造を主力事業としてきましたが、1890年から様々な開発に着手し、カールツァイス財団はカメラ、双眼鏡、医療機器、メガネ、天文機器、分析機器、測量機器、精密測定機など8つの産業分野で、“ドイツの奇跡" と称されるほど発展を遂げました。東西冷戦中は、東側、西側それぞれにZEISSが存在していましたが、1990年の東西ドイツ統一を経て、1991年には再び世界で一つのZEISSとなりました。
なぜ顕微鏡を作ることになったのですか?
製造のきっかけは、ツァイスがドイツでも腕の立つ機械職人(マイスター)として有名だったため、イエナ大学の植物学者シュライデン教授から顕微鏡を作ってほしいという要望が寄せられたことです。
当時、ドイツは産業革命が途中段階で、イギリスやフランスが産業の先駆者として発展していました。 そのため、ツァイスもこの流れに追随し、顕微鏡の製造をはじめました。
ZEISSが発展していく中で、変革をもたらした出来事は何かありましたか?
顕微鏡の歴史の中で有名な出来事の一つは、当時不治の病とされ、自然療法しか存在しなかった「結核治療」への貢献ですね。
この病気の原因となる「結核菌」を、当時は田舎の町医者だったロベルト・コッホ(1843-1910)が1876年に炭疽菌を発見し、その後ZEISSの最新型の顕微鏡と写真撮影装置を使用して1882年に結核菌を発見し、1905年にノーベル賞を受賞しました。
この発見により、結核の原因がこの細菌にあることが明らかになりました。そして、次はこの細菌の治療法を研究することが進み、結核が治癒可能な病気となりました。
この出来事は、近代細菌学の基盤となった重要な出来事の一つなのです。
顕微鏡のほかにも双眼鏡やカメラレンズが有名ですよね?
双眼鏡は日露戦争時に日本海海戦で大勝利を収めた陰に東郷平八郎長官の愛用されたZEISSの双眼鏡があったという話は特に有名ですし、カメラレンズは「アポロ11号」が人類初の月面着陸に成功した際に撮影に使われたことでも有名です。
そのほかにもZEISSらしさが発露されたエポックメイキングな出来事はありますか?
世界初の光学プラネタリウムを1923年に開発しました。
ガリレオの地動説が追認されると、18世紀ごろから地動説に基づいた太陽系運動儀(惑星儀)が盛んにつくられるようになりましたが、これらは機械模型の域を出なかったところ、
1923年に完成したツァイスⅠ型プラネタリウムは、ドーム内側に夜空を投影する現在のプラネタリウムの原型で、恒星と惑星のほかに星座、星座名、天の川、太陽、月とその満ち欠け、日周運動、年周運動を表現できた極めて画期的なものだったのです。
また眼鏡レンズに焦点をあてると、光学技術の粋をあつめた、点結像眼鏡用レンズ「プンクタール」(Punktal)を1912年に発表しました。これは医療用具としての考え方から科学的根拠に基づいた初の眼鏡用レンズで、その特徴は「レンズの中心から周辺まで、どの方向を見ても像が滲まない」という、当時画期的なものでした。
当時のレンズは周辺部の視界がボヤけることが当たり前だったため、装用者は対象物を見る時、顔の向きを変えて対象物がレンズの中心に来るようにする必要があったのです。
この「プンクタール」は後の眼鏡レンズ理論の基礎となったのです。
ZEISSは「プンクタール」の開発後もメガネの技術革新に数多く貢献しました。
今日、メガネを作る際に使われる両眼検眼システムをはじめとして反射防止コーティングの採用や累進多焦点レンズの水平対称性能の向上など、ZEISSによって市場に投入されたメガネ関連技術は枚挙にいとまがないのです。
顕微鏡の魅せるミクロの世界から人類が想いを馳せる宇宙。そしてその技術を今、人々の視覚支える眼鏡レンズの世界へ。ブランドエッセンスである「Seeing Beyond」の起源が良くわかるお話です。
ソーシャルデザインのパイオニアとはどういうことでしょうか。
1900年頃のドイツでは、1日12時間から14時間の労働が普通で、週に1日しか休みがなく、病気や怪我をした際も一切保障がありませんでした。
アッべの父は紡績工場の工員で、子どもの頃から資本家から労働者が搾取されている光景をずっと目の当たりにしてきたため、彼はこれが社会的に重要な問題だと考えていました。
アッべは、企業がみんなで製品を作り、その利益が従業員や社会に還元されるべきだという信念から、カールツァイス財団を設立後、8時間労働制・有給休暇・健康保険・労災補償・障害者の雇用や保護・非営利組織への寄付などを確立しました。
これらの取り組みは約100年以上前のものでありながら、今もなお世界の社会保障の基盤となっています。以上から、カールツァイス財団は持続可能な社会の実現を目指し、社会と産業をデザインしてきたパイオニアと言えるでしょう。
つまり社会課題を創造的にデザインして解決してきたパイオニアということですね。
それだけでなく、ZEISSは、光学理論と技術を通じて社会に貢献することをモットーとしています。
当時の信念から、「技術は独占せず、社会全体の利益に貢献すべき」と考え、そのために財団設立当時は研究に役立つ発明や改良に関しては、特許を取ることを禁止していました。
ZEISSはこれからも、常識を超えたソリューションを創造するために、より遠くを見据え、革新的なアイデアやソリューションを追求していきます。
ZEISSは社会課題の解決や社会資本への投資を、光学事業を通じて長年行ってきた歴史があるのですね?
現代に受け継がれるものは当然あると思います。
その代表的な取り組みがSTEM教育プログラムの投資ですね?
ZEISSは、持続可能な社会の実現を目指す先駆者として、現在のサステナビリティイニシアティブにおいても存在感を示しています。その取り組みの一つが、12歳から18歳の青少年に科学技術への関心を高めてもらうことを目的としたSTEM教育プログラム「A Heart for Science」の推進です。
次回のインタビューでは ZEISSならではのサステナビリティへのユニークな取り組み「A Heart for Science」について語っていただきます。ぜひご期待ください。
リサーチマイクロスコピーソリューション所属
顕微鏡のスペシャリスト